大徳寺昭輝氏講話   

                   於  紋別市 文化会館  1996年10月1日

 本日は、こういう素敵な会を催していただきまして本当にありがとうございます。
今、妹に「郭(クルワ)八景」を踊っていただきましたけども、舞いの原点というのは、なんでありますか。天の岩戸の前でアメノウズメが舞ってそして、天照様がお出になられたことが一つの原点で、まさに舞いというのは人の心を開くまた、人間の生命を開く素晴しい清めの姿なんですね。
 私、先日旭川市東神楽町で講演させていただきました。神楽とうい所、まさに神楽の原形というのは、この「アメノウズメ」から来ているわけでありますけども、ウズメというのは、とても火の神様の魂をいただいて、自分の生命の光を感じながら舞いを舞うことによって、岩戸が開かれたわけですね。
 まさにその時に、天照様が岩戸に隠れてた時に、神々が寄り集って、話しをするのは、まづみんなが一つの声になろう。神々は一つの心になろう。一つの心になって、それぞれのもっている素晴しさを高めあおう。そして笑いあおう、喜びあおう。そしてアメノウズメが岩戸の前で、陣をとって、舞い始めます。
 神々は、だんだん笑い始めて、そしてその笑い声が岩戸に染み込んでいって、天照様の岩戸が開かれた訳でありますが、この天照様の岩戸の輝きとは、実は我々の生命そのものが、岩戸の輝きであります。
 


 

 こうして、私もこの舞台に立たしていただいて、いろんなお姿が見えますけれども、みんな心の中に、すばらしい天照様、光を持っていらっしゃる訳ですね。
この光、みなそれぞれがまさに光、男性でも女性でも全て平等に光を持っている、この生命の輝きというものをしっかりと、考えて毎日を生きていくと、怖いものがなくなってくる訳ですね。
通常人は表面的なことで悩んでしまう、また考え込んでしまって、光を忘れています。

 それで今日はこの光について、話しをしたいと思います。1時間くらいのお時間でございますけども、こういう紋別の素敵な場所をお預かりして、生命の輝きについて、お話しをしたいと思います。よろしくお願いいたします。

 今この光ということを、話しをしましたけども、光の前には、老人も、若い者もないんですね。自分はもう老婆だわーと思っている人も、自分はもう70過ぎてる80過ぎてるわーという思いもなく、みんな素晴しい輝きを持っている。だから皆さんがいくらこうやって、お化粧しても全部こう光がわかるわけですね。だからみなさんこう、前に座っていろんなお洋服を着ていらっしゃいますけども、私は、みんなこうお話しする時によくカボチャやダイコンみたいに思いなさいといいますけど、私はそうじゃなくて、みんな光だと思って話しをする。みなさんは光。この光りをみなさんが本当に考えていくと、人生とはとても変わってくるんですね。ものの見方や考え方が大切です。自分は駄目な人間だ、自分はだらしない人間だ、自分はいくらお話しを聞いても成長が鈍い人間だと思っていると、せっかくのこの光りを駄目にしてしまう。
 光りというのは、全てあらゆるものを現実に現わしていく素晴しい力なんですね。
あるものは、これ才能といいますけども、みなさんの中には、素晴しい才能が沢山あります。この素晴しい才能を皆さんは自分で、駄目にしている。いろんな悩み、思い、またグジグジ思うこと、先を安じること、大丈夫かしら、今日は大丈夫かしら、ああかしら、こうかしら、そういうことばかりこの生命を使ってしまって、やはり、みなさんが自分で、そういうものを作ってしまう訳ですね。

 この紋別や旭川に来るために私は電車に乗り、また飛行機にも乗りますけども、本当に信じる、自分の人生という乗り物、今向かっているところが紛れもない紛れもない光に向かっているんだ、素晴しい幸せに向かっているんだということをしっかり感じていくと、人生というものはとても変わってくるんですね。
 みなさんがたとえば、駅で電車に乗るとき、これはどこどこ行きだと思って乗ります。途中で本当にこれは、そこに行くのかしら、えー大丈夫かしら、この景色は違うかしら、怖いわ怖いわ。そう言って途中下車してしまう。せっかくみなさんが行く方向に、電車が向かっているのに、みささんは途中下車しているんですね。
 幸せの遠回り。まさにみなさんが、幸せに生きているんだ、幸せだ、幸せだと思って乗ってる電車を不安に思ってくる。たとえばある方が、こんなに、ああこんなに、うまく物事が動いている、こうなってる、ああ、主人もいい仕事に着いている。こうだ、ああだ、こうゆうふうに、みんなよくなっている。でも本当に大丈夫なのかしら、ああかしら、こうかしらと不安になってきてしまう。これはせっかくみなさんが、素晴しい幸せに向かっているのにかかわらず、自分で自分の人生の幸せ行の電車から降りてしまって、途中下車していることになるんです。これが不安だとか安じる心ですね。不安だとか安じる心。せっかくみなさんが素晴しい電車に乗ってるんですよ。聖書でも古事記でもみんな書かれているものというのは、神様がこの世を創造する時、人間に幸せをつくりたい、幸せということを喜び、喜ぶ心というものをまづ第一にあってつくっているんですね。
 だから、人間はみんな喜ぶために生きているんです。幸せになるために生きているんです。幸せになる力をみんな持っているんです。しかしみなさんは、幸せの行きの電車に乗っていながら、自信がない、不安になってきて、途中下車しまう。

 もったいないですね。これが安じる心です。不安に思ったり、こうなるかしら、ああなるかしら、グジグジ、グジグジ悩んでしまう。そういう悩む心を全部払うことが大切なんですね。払う。まさにいまこの舞いがありました。天照大御神様が岩戸に隠れて真っ暗闇なっている、しかし神々は、信じます。岩戸の中に光があることを、そして、光がちゃんと出てくれることを信じます。信じて笑います。その信じて笑う心が全てを開くんです。だからみなさんが本当に今自分が駄目な人間だ、今こういう病気に悩んでいるこういう状況に悩んでいるってこと、その悩みの世界に自分を置かないで、自分は幸せになるために、生きてきているんだ。今見えている、悩んでいることは全部うそなんだと思ってください。みなさんは、素晴しい光りの世界に生きている。ですから、安じる心を全部払って全て光に、光に向かって物事を考えていく。
 
 よく、お経などで、南無という言葉がありますが、よくみなさんはこれ南無阿弥陀仏とか、南無観世音菩薩だとか、南無という言葉をよくつかわれますけども、この南無という言葉は、どういうことかというと、戻るということ、帰依するということ。帰命というんですね。帰命とはどういうことかというと、たとえば、こっちの今、今は紋別に暮らしている。しかしみなさん産まれたところが、たとえば関東地方の埼玉だとする。南無というのは、今ここに、紋別にいます。しかし自分のお里は、埼玉県です。埼玉県たとえば川口だとします。そして自分がその川口市に戻ること、自分の産まれ故郷に戻ることが、南無なんですね。
 南無とういのは、だからみなさんがいまここに嫁いできている、しかし自分の実家はたとえば、東京だと、こう東京に戻ることが、南無とういことなんですね。
だから、南無というのは、自分の本地に戻るということ。自分が産まれた場所に戻ることが南無なんです。そして、たとえば南無阿弥陀仏という言葉がありますけども、自分が産まれた場所に戻ってみると、自分の家の表札もまた隣の表札もみんな阿弥陀仏様だったんですね。ああそうか、自分の本当に産まれた自分の実家は、阿弥陀仏様だったんだ。あっ、自分も阿弥陀様なんだ、ということに気がつくんですね。
 だから、南無阿弥陀仏というのは、ああ自分は阿弥陀様だ、阿弥陀仏様と同じ魂を持っているんだ、というのが南無阿弥陀仏なんですね。また南無観世音というのも、自分が本地に帰ってみると、自分は観音様なんだという世界なんですね。さてこれが光なんです。先日、上川神社の広間でお話しさせていただいたきました。その時に丁度神社でお話しをしますから、神社の神道の中からの言葉を引用して話しをさせていただきました。古い神社のお話しの中には全ての人は、姫であり彦であるということをいっているんですね。日女であり日子である。この「ひ」というのは、お日様の日なんです。

  男の人は日子。女性は日女。ここにいる女性は、みな日女様なんです。また男性は、まさに日子なんですね。この日というのは、みなさんが持っている生命なんです。だからみなさんが別に何を信仰しようが、信仰しなくとも、ちやーんとみなさんの中には、光、天照様と同じ輝きをみんな持っていらっしゃる。
 この天照様と同じ光を蘇らせるためにはどういうことが一番いいのかというのは、感謝なんです。感謝。毎日を感謝して生きる。恵みを感謝して喜ぶ。だから別にむづかしいお経を、自分は般若心経をなかなか覚えられないぞ。自分はキリスト教聖句を覚えられないぞ。自分は神道の祝詞が覚えられないぞ。さてどうしようか。しかし、この三種類の中に書かれていることは、あらゆる自然界に中にある恵みを喜びなさいということ。
 キリスト教でアーメンという。アーメンというのは、全てこの世界の恵みを心から神の恵みであることを信じますということ。あなたに全てをゆだね、そして自分が神の子であることを感じます。アーメン。まさに全てが、神の子である、光の子であるということを感じることなんですね。
 
 ということは、光の子に戻って見ると、全てがありがたいこととわかってくる。ありがたいことだとわかってくる。だから、有難うでいいんです。
毎日有難うございます、というだけでいいんです。それだけを毎日続けていたらもう素晴しい聖人になれます。特別な修行をするから、聖人になるのではないんです。毎日の生活をいかに喜ぶかということが、清らかな人なんですね。
これが本当の道です。自分は修行が足りないから、手から光がでないわ、とか物が見えないわ、とかそういう世界は関係ないんです。本当の世界というのは、感謝する世界なんです。私はよくいうんですね。宗教というのはどうして、争う宗教なのか。宗教とは本来人間が和解しあわなければいけない、と言うことをことを伝えなければならない。しかし今の世の中を見てください。宗教で争いあっている。これは偽の宗教です。本当の宗教というのは、和解なんですね。みんなが解りあう、拝みあうことができなければいけない。

  自分の宗教だけが偉い、自分のが偉い、自分はこうだ、自分は正しいことを言ってるぞ、こうだ、あれは偽物だ、こうだ、争いあうのは、宗教の世界ではない。本当の宗教というのは、和解なんですね。和解というのは、解りあうこと。思いあうことなんです。みんなのいいところを思いあうこと、たとえば、どっかの宗教に入ってみると、言ってることみんな同じです。だってみんな同じところから始まってる。それが人間が生きる喜びから始まっている。だからどんどんどんどん超えていくと、人、人間が解りあうために物事は生まれているんですね。だからお互いそれこそキリスト教、仏教もあらゆるものが、実は解りあわなければならないんです。自分だけが偉い偉い偉いと言っていても全然偉くないんです。この3年4年宗教の問題が起きてきました。これはそのことを天が教えてくれているんです。本当の宗教というのは、人間が持っているこの生命を喜びあうことなんだ。何かの組織に入ったから、あなたは素晴しい信仰家だというのではないんだ、ということを言っている。
人と人とが解りあうことをおしえているのです。

 繰り返しますが、この3年くらいオウムの問題がでたり、いろんな宗教の問題がでてるのは、本当に大切なことは自分が家に帰って、自分が家庭において、いい妻となりいい母となり、またいい御主人となる。このことだけで、いいんだ。別に無理に会員になることもなく、こうしなければいけないとういこともない、みんなが和解しあうこと、解りあうこと思いあうことができなければ、本当の道ではないということをいってるんですね。これをこの自然界がいま示しているんです。
  
  だから、みなさんがこれから家に帰って、たとえば、ご主人にああ、「いまお話しを聞いてきて、有難うということは、本当にすばらしいということが解りました。あなたが一生懸命働いてくださって、家が保っているんですね。ありがとう。」また妻に対して、「いままで妻として、家事を預けて当り前と思って料理を作ってもらっていたけども、しかし、感謝することを忘れていた。ありがとう。」そういった瞬間から、本当の道が始まるんですね。
 道というのは、喜びあうことなんです。よくいろんな仏教でも、キリスト教でも、いろんな言葉の中で「道」という言葉使いますが、この「道」というのは、どういうところから来ているかというと、満ち溢れる。喜びが溢れて来るというところから来ているんですね。満ち溢れる。まさに泉がこう、沸き上がるとういこと。喜びなんですね。喜びの心が、満ち溢れるという言葉にかわって、お道というのが出来ているんです。だから喜べないのはウソなんです。はあなたは、前生こうだとかああだとか言って、人を脅かす世界は、喜びはない訳ですから、ウソなんです。
 その世界はけっとばしたほうがいい。喜びあうことができて始めて、素直に、心からごめんなさい、と言えるようになってくる。だから喜ばなければいけない。喜びあうことが本当の教えであり、本当の道である。だからみなさんが家庭の中にいて常に向かい合って喜びあっていったら、それが本当の教えなんです。それが本当の宗教なんです。宗教とうのは組織ではありません。宗教という字の宗は、この世界ということ、家へんですね、家へんに示すということ、まさに、宗教とは家の中に示される素晴しい教えということなんですね。だから、自分の家、自分の家庭、自分の住んでいるところ自分の仕事場、本当に示されてる喜びを感じあうことが宗教のもとであって、宗教の組織に入ったから宗教家だとかいうんではないんです。


 

  私は心から尊敬している芹沢光治良先生、私が18の頃から本当に子供のようにかわいがってくれましたけども、宗教家ではありません。素晴しい文学者でありました。光治良先生は本当に文学を通じて、人間が解りあい、和解しあうことを伝えてくれました。そして神という言葉を大自然という言葉に置き換えて、話しをしてくれました。
 すばらしい文学がたくさん生まれています。その文学のもとになっているのは、まさに本当の宗教です。人間が解りあうこと、愛しあうこと、喜びあうこと、それだけでいいんだということ、光治良先生は、本当に自分の文学を通じて伝えています。
 
  だからみなさんが本当に、本当の意味での素晴しい喜びあうことのできる自分の回りに示されたあらゆることを喜びあえる人になってください。教えというのは、道です。喜びあうことです。だから家の中に示されて、喜びあうことができる道なんですね。だからそういう自分をしっかり持ち続けていくことが大切なんです。

 さて、話しを戻しましょう。みんな人間の中には輝きがあります。いまみなさんの中にとても素晴しい輝きが、輝いています。この輝きの前には、実は病気も、悩みもないんですね。人間の生命、私は生まれ変わることも、出変わることもあるとちゃんとお話ししておりますけれども、人間の生命というのは、まさに老いることも弱ることもないんですね。老いることも弱ることがない。まさに輝きなんです。
 
  一つの物語を読みましょう。ヘレンケラーという物語があります。ヘレンケラーというのは、目も見えない、耳も聞こえない、言葉をしゃべれることもできなかった女性です。少女でした。親戚からこの子はもう一生だめなんだといって、誰からも見向きもされません。ただ静かに死んでほしいと願われるだけでした。しかしヘレンケラーは、お母さんの愛によって、サリバン女史という、まあヘンレンケラーよりはとても軽傷であったが、そういう苦を持っていらしゃった方との出会いによって、ヘレンケラーは目を覚まします。女史とヘレンケラーは二人暮らしを始めます。ヘレンケラーはそれこそ物が伝えられない、耳も聞こえない、目も見えない、もうそれこそ闇の中で自分一人だけの世界の中で、こう物を探し回りますから、お皿は割る、それこそ家の中はひっちゃかめっちゃかにする。しかしサリバン女史は、ヘレンケラーという光を信じました。あなたは、獣でも、野獣でもない。あなたは、りっぱな生命を持っている、素晴しい人なんだ。サリバン女史は、ヘレンケラーにいつもいつも祈りかけました。信じ続けました。そして、ヘレンケラーは、始めはもう、サリバン女史を引っ掻く、洋服は破る、人形の首はちぎって投げてしまう。しかしサリバン女史のその暖かい祈りによって、ヘレンケラーは、ウォーターという言葉の入り口を見つけました。そこから、ウォーターという入り口から、どんどんどんどん生きる力をいただいていって、大学、大学院と自分で一生懸命歩んで、ついに世界に素晴しい希望を与える、素晴しいメッセンジャーになりました。この三重苦といわれたヘレンケラーという女性に対して、「おまえは病気だ。」という人はいるでしょうか。誰もいえません。ちゃんと講演もし、お話しをし、人に出会い、本当に心から、人に向かっていきました。この姿をみてヘレンケラーを病気だという人はいるでしょうか。ヘレンケラーは、素晴しい輝きを持っています。それと同じようにみなさんも自分の中にある生命を心から信じていくことができたら、何にも怖いものはないんです。病気さえもないんです。悩みさえもないんです。
 
 まさに、皆さんが本当の愛を知って、本当の愛を伝えることができたら、悩みも何もないのです。では本当の愛とは何でしょうか。
 見返りを求めない愛です。みなさんは、人間関係で悩んでいる方も何人かいるようですが、その一つの一番大きな九割りかたの悩みというのいは、こんなにもあの人にしてあげたのに、私のことこういふふうに見てくれない。帰ってこない。恨む。そういう方が多いと思います。何故帰った来ないで悩むのでしょうか。愛というのは、与え続けるもの、与えて与えて与え続けるもの。見返りを求めるものではないのです。
 
  真の愛というのは、お母さんの愛です。子供が立派に育ち、子供が立派に生きていくことだけを影ながら祈る母の愛、これが本当の愛、これは見返りを求めない素晴しい愛です。これが原点です。そしてこの自然界が神、仏、神仏とすれば、たとえば流氷が来て、沢山の魚達がやって来る。漁師の方々がその魚をいただける。魚達がおまえ達を食べさせてるぞ、という言葉をしゃべった魚はいるでしょうか。誰も何もいいません。自然の恵みが、みなさんの心を、みなさんのお腹を裕福にしてまたこの紋別の町を豊かにしてくれる。まさに与え続ける素晴しい恵みです。まさに見返りを求めない。常に常に恵みをくださる大自然の愛、それと同じようにみなさんは、これから人のために、何かさせていただいたら、もう見返りを忘れることです。逆にいえば人のために、人が喜んでくださることを心から喜んでください。自然界がみなさんをお使いくださって、みなさんが本当にお人のために、素晴しいお役をさせていただいているんだ、ああ自分を使ってくれて有難うございますという世界に入ってください。そしてよくその事、行った行動に対して、ふっと忘れることです。「ええあなたのおかげで本当に良くなりました」。「そうですかよかったですね。でも私は、ただあなたに幸せをつないだだけです。はあそういっていただいて、ありがとうございます。でも私は本当に、あなたが喜んでくだされば、もうそれで結構です。まさに天が自分をつかって、その人のために幸せをつなぐ力を与えてくれた。はあ自分のような者をつかってくれて本当に有難うございます。」と心から祈る。そうするとだんだんだんだん人間関係がとてもよくなってくる。やはりこんなにやってあげたのに、あんなにやってあげたのに、何故かしら、これかしら、ぐじぐじぐじぐじ思う心が問題になる訳です。

  私も湯河原の天命庵という所で、月に何度か相談日を設けて、何人かの方がお話し聞きに参りますが、九割りの方が、子供さんの悩みだとか、家族の悩みだとか、ご主人に悩みだとかいいます。その方々の一番の話しの始めは、自分がこんなに、子供に尽くしたのに、子供は学校行ってくれません、こうなんです。主人にこんなにやってあげたのに、主人はああなってしまいました。みんなこうやってあげたのに、という?マークが必ずついてる。妻でありまたお母さんであったら、こどものためにご主人の為に、こんなにやってあげたのにという言葉がでることがおかしいんです。当然のことなんです。こんなにやってあげたのに、こうなった。あんなにやってあげたのに、こうなった。ここまでやってあげたのに、という心に見返りを求める心がある。これがそもそも問題です。だからみなさんが、そういう心を放して、もっともっと軽くなり、もっともっとうれしいです、とうい気持ちになっていったらそこに問題は起きない訳ですね。逆に、子供にこんなにやってあげたのに、という裏側の心は、こどもに重さがかかるわけです。重いというのは、流れて行きますから、ああお母さんの目がこんなにやってあげたのにという目をして、私に恩きせがましく重くのしかかってくる。子供はそんな母のそばにいたくありません。

  まさに子供というもの、先月私は、ヤマンバとうい踊りを上川神社の境内の能楽堂で奉納いたしました。そのヤマンバという踊りは、酒田のキントキ、みなさん金太郎さんご存じだろうと思いますけども、金太郎さんのお母さんがヤマンバです。
  ヤマカツといって、都の忍者みたいな方が、山々を歩いて、都の警備するのに力の強いものはいないか、ということで山々を探して歩く、そういうヤマカツという、木こりの姿に変わって、偵察にいくわけですね。その時、とても力持ちの金太郎に出会いました。ああ、こいつはすごい力を持っている、よし都の為になんとかスカウトしよう。でスカウトするわけですね。お母さんと二人暮らし山小屋で暮らしています。そしてお母さんにお話しをして、この子を是非都のために、都の守りのために、どうぞ私に預けてくれませんか。そして、踊る踊りなんですね。
  ヤマンバというのは、山巡りという場面ではありますけれども、その時にいろんな金太郎と思い出を踊り、そして最後にさあ、いってらっしゃい。私のことは何も心配することはない。私はあなたを陰ながら祈り続けて、あなたに迷惑にならないように、山また山の山に入りいつまでも、あなたをお祈りしています。さあ、私のことは忘れて、立派にこの国を守りなさい。そしてヤマンバは、静かに山々に消えていきます。
  まさに、このヤマンバの後ろ姿の中に見返りを求めない母の愛があります。こどもの成長、こどもの喜び、こどもが立派に仕事をしてくれることに対しての、その姿を拝むことができた母の自信、喜びがあります。

 今の画学校では、いじめとかそういう問題が現われてまいりますが、やはりこどもを比べる親がお多い訳ですね。こどもを比べる親が。10人こどもがいて、10人こどもが同じ存在ではないんです。クローンではないんです。コピーではないんです。10人いれば、10人それぞれ素晴しい才能を持っている。しかし自分の子供という輝きがあるのに、隣の子供ばっかり見て、あの子は大学に受かったみたいよ。あの子はいい学校に行ったみたいよ。家の子は?そういう人が多いですね。比べるんです。比べたら子供も、ふてくされます。お母さん、ぼくを信じてくれない。いやだいやだいやだ。
  
  もっともっと、自分の子供をみなければいけない。家の子は、どういう才能があるんだろうか。どんな力があるんだろうか。どんな素晴しさがあるんだろうか。自分の子供をもう一度見つめてください。そして、子供に一番あったお役に、子供に一番あったものに親が導いていかなければいけない。子供をもっともっと理解しなさい。これが思いやることです。自分は親だぞ、といって子供を上から見ようとする。私は親なんだ。おまえは子供なんだ。これがいけないんですね。子供の目線になって、こうやって眺めてあげなければいけない。子供と同じ目で話しをしなければいけない。親なんだから、私は偉いのよ、あなたは低いのよ、ではなくて、やはり、親というのはそれだけ経験も積んでいる。素晴しい魂を持っている。素晴しい力を持っている。だから、低くなることができなければいけない。これが、多くの経験を積んで、多くの徳を備えた大人の姿です。膝を折って、子供の目線になって、子供を見て差し上げる。そして、子供の持っている才能をしっかり目と目で話しをしながら、子供の素晴しいさを感じて、その子供の持っているものの思いやりを感じて、話しをしていけば、少しくらい怒られたって、「お母さんは僕のことを思ってくれている。お父さんは、僕のことを思ってくれている。」ということに自信を持って世の中に出ることができる。そしたら自分が一番尊敬する存在は、お母さんです。お父さんです。とはっきりいえるようになる。子供の目線になって、物を考えていけばいい。そうすれば逆にいじめもなくなってくる。やはり、ストレスなんですね。学校にいって、親が見てくれない、他の子ばっかりこうチラチラ見て、自分の本当を見てくれていない。自分の中にある輝きを見てくれていない。表面の自分だけを見ている。だから子供がいろんなかたちに、反抗するわけですね。
 この中にも、そんなお母さんが沢山いると思います。これから、子供の身になって、物を見てあげてください。そうすれば、必ず子供が光りに向かって、どんどんどんどん伸びていきます。これが、さきほどの一番話しの元に戻しますが、今日舞いがありました。まさに喜びあうこと、家の子供は素晴しいんだ。といって心から信じ、喜びあうことによって、子供の持っている岩戸が開かれるわけです。 子供の持っている岩戸が開かれる。子供の才能が開かれる。その光をみなさんの心に感じて、いただいてください。それがありがとうなんですね。ご主人に対してもそうですよ。ご主人は、貸し物、借り物。奥さんも貸し物、借り物。
「ただいまー」といってご主人が帰ってくる。今までご主人を素晴しいと思わなかった奥さん。始めの新婚生活のときには、とってもご主人に対しても、いつもにこやかに、微笑んでいた奥さんが、だんだん、年々、年月が経ってくると、「あー帰ってきたの。面倒くさいは。また安い給料持ってきたのね。ふん。」そういう姿になってくる。しかし、ご主人を、さっきもいいました、南無阿弥陀、阿弥陀様と思ってください。
 「ピンポン」 「あっ、家の阿弥陀様が帰ってきた。阿弥陀様は給料袋を持って帰ってきてくれた。阿弥陀様はありがたい、自分のために働いて、お金を稼いできてくれた、ああ、南無阿弥陀仏。」
 そうすると、気持ちが違うんですね。また奥さんがこうやって料理を作って、ご主人があたりまえの顔をして、テーブルに座っている。
 「ああ、また、まずいご飯を食べさせられるのか。ああ。もうすこし、ちょっと奇麗にしてくれよ。髪がこうやって、ああ汚い汚い。」
 そうすると奥さんも、「もいいいわ。」となってくる。
 しかし「家の阿弥陀様が料理を作ってくれている。どんなにおいしい料理を作ってくれるのかな。後ろからみても拝みたくなるほどの姿だなー。」そうするとちょっとくらい塩辛くても、
 「ああ自分の疲れたことを知っていて、塩気を強くしてくれた。南無阿弥陀仏。」
 そういうようになってくる。そうすると家庭円満なんですね。自分の所有物と思うから、ご主人に対しても、奥さんに対しても、自分の所有物だ、支配しているという気持ちになってくきてしまうから、グチがでてくる。しかし、ご主人に対して、また奥さんに対して、阿弥陀様だと思ったら変わるんです。また子供さんに対しても同じですよ。いままで自分の子供だ、自分の所有物だ、自分の支配しているものだと思っていた子供に対して、子供も阿弥陀様だと思ってください。そうすると、
 「ああ、阿弥陀様が元気に、運動会で駆けっこしてくれる。阿弥陀様は勉強してくれる。」
そういうふうな、気持ちなってくる。ありがたい存在とみんなが拝みあうことなんですね。
それが大切なんです。
  
  先日、そういう話しをある講演でしましたら、飛行場で、あるご婦人が尋ねてきて、
  「大徳寺さん、実は昨日不思議なことがありましてね。」
  「何があったんですか。」
  「やあ、それが家に帰ったら主人が、薔薇の花を一本もって、やあ有難う、玄関で渡されたんですよ。もう30年お誕生日でももらっていない花束を、薔薇の花をくれたんですよ。ありがとうございますといわれました。いやー、本当にその時、主人はありがたいなと思いました。」
 
  とても、うれしかったんですね。まあそれをみなさんが、しなさいってなことではないんですけどもね。でもその行為だけで自分は阿弥陀様になった、阿弥陀様だと思ってはいけません。花束を渡したから、もうあなたは阿弥陀様になりました。もうほっとけばいいじゃだめなんですね。形や行為ではなく、大切なことは心なんです。人間の体というのは、借り物です。心、魂というのが生まれ変わり、出変わりこうやって、常にこう一緒にいくわけですね。しかし肉体というのは、まさにこの着物のような物、古くなったら、土に帰す。亡くなったら最近海にまくという方もいますけども。古くなったら、まさにこの土に帰るわけですね。唯一自分の心、自分の心というものだけが、常に自分の傍に居座る。自分の物なんです。だから一番必要なことは、自分の心から何かをすることなんですね。心から、真心なんです。真心がなければ、何もならない。

  私はよくみなさんにいいます。料理を作った後に、最後、「真心、真心」というと味がかわるんですね。これは本当のことなんですよ。お水でも、コーヒーでも、「ああ、真心、ヒュー。」真心一滴入れるとすっと味が変わるんです。これが愛の働きなんですね。この愛の働き、たとえば子供さんが怪我をする、子供さんがちょっとお熱をだす、そういう時にはお母さんが、
 「はあー痛いの痛いの飛んでいけ。チチンプイプイのプイー」といって子供がよくなります。これは本当のことなんですよ。どういうことかというと、まさに子供に対してチチンプイプイのプイーっていう思い、愛なんですね。愛の心で向かっていくと、本当にそういう働きになってくるんです。愛がなければなにもなりません。まさに愛の力というのは、それだけ素晴しいです。だからみなさんが心から相手に向かって、人に向かって、心から本当に見返りを求めない愛をかけ続けていったら、相手は本当に素晴しい働きを生きてくれるんです。
 だから自分の子供を見て、自分のご主人を見て、「だめだ、こうだ、ああだ」と、ぐじぐじいわないで、やはりその先にある輝きを信じていつも祈っていて差し上げたら、必ず道はつきます。これが本当のことです。だから、みなさんがそういう、生命の輝き、生命の心というものを持ってください。また、自分がほんとに輝きを持っている、光を持っている。自分の生命は神の子である、仏の子である、ということが解ってくると、人に対しても、
 「あなたも神の子ですよ、あなたも素晴しい光を持っていますよ。」ということを感じてあげられるようになる。たとえばじぶんが因縁が悪いだとか業が悪いだとか、自分はこうだ、ああだ、自分は汚い存在だ、自分は罪人だと思っていると、人に対しても、
 「あなたも罪人ですよ、あなたも汚いですよ。」いいたくなってくる。
 まさに自分が光の子であり、神の子であり、輝きを持っているということを感じながら毎日生きていると、出会った人に対してあなたも輝きがありますよ。光がありますよ、ということをちゃんといえるようになってくる。まさに自分の生命をまず、光の子であり、神の子であり輝きを持っているということをまず感じてください。
だから、自分の生命に対して、有難うをいえるようになってください。自分の生命に対してありがとう。毎日自分のこの体に対して、ありがとういう言葉を使う。そうしていけば、自然にありがとうという言葉がでてきます。
 まず、人に人にというからだめなんです。まづ自分にいわなければだめですよ。自分にありがとうといえるようになってくると、自分の人生にありがとうといえるようになってくると、最後に、回りの人にもありがとうがいえるようになってくる。これが本当の実践です。


 
 
 

 まあ、いろいろと話しをしてまいりましたけども、みなさんがこれから、素晴しい輝き、素晴しい生命の中にある、本当に、本当のもの、「南無」とういう言葉でいいました。本地に戻るとみなさんは、阿弥陀様になる。本地に戻ると、みなさまは、観音様になる、本地に戻るとみんさんは、光の子になる、ということを感じてください。
 これから、お見舞に行く時でも、
 「はあ、自分はこれから、百何号室の病室に行くぞ、お見舞に行くぞ、その病室に寝ている人は、こういう病気だ、こういう病を持っている、ああかわいそうに。かわいそうに、かわいそうに。」と思ってエレベーターに乗る。トントン、開けて言葉をだす前に、かわいそうにという思いがお土産についていっちゃんです。
 「かわいそうに、あなたは、難病ですよ。あなたは危篤ですよ。」という。そういうのがお土産についちゃうんですね。私はよくいうんです。病院にいって、そういうお土産をつけないように。だから
 「百何号室に寝ている病人さんは、病気ではない。素晴しい生命をもっている、素晴しい生命をもっている。素晴しい生命をもっている。素晴しい生命をもっている。」といって、エレベーターにスイッチをいれて、扉をひらいて、トントン。
 「素晴しい生命を持っているぞ。」といって入って行くんです。これが本当にお見舞です。お金を持って行ったから、お花を持って行ったからではなくて、心から
 「素晴しい生命なのよ、あなたは。」という心で行くことですね。言葉ではないんですね。思いなんです。だから、素晴しい思いをお土産にして、行ってください。
 「あなたは怖い病気よ、あなたは後何ヵ月よ。あなたは、重病よ。」そういう思いではなくて、
 「あなたは素晴しいわ。」という気持ち、そういうお土産をしてください。また、悩みをこれから聞きにいく。お助けに行く。また、悩んでいる方がいる。その方の家に行こうかなと思う方、あの人は、悩みを持っている、悩みを持っているっといっちゃいけないんですね。
 「あの方は、悩みはない。悩みはない。悩みはない。何故ならば、あの方は神の子なんだから。本来、悩みはないんだ。表面が悩んでるだけであって、内面は輝いているんだ。」そういうふうに思って、 「ご免ください。」といって行くと、
 「あなたは悩みはないのよ。」というお土産ちゃんともっていけるようになる。そういう風な毎日を生きて見てください。そういうと、
 「現実はね、、、」ということをいいますけども、この現実は、ウソの現実です。人間の生命を見てください。さっきのヘレンケラーの話しを思い出してください。
ヘレンケラーや、また、みなさんの輝きは、素晴しい光を持っている。これが全て答えです。みなさんがそういう輝きを心から信じて、毎日毎日これから、感謝して、生きてください。
 「ありがとうございます。」その言葉が、何ものにも代えがたい、おそなえです。また、人生訓の一説です。
 「ありがとうございます。」それだけ言えたらいいんです。
 「感謝いたします。」
お日様に向かって、「ありがとうございます。」
ご飯を食べるときに、「ありがとうございます。」そういう気持ちでいいんです。
  
  だから、今日、みなさんがこの講演の場に、ご縁いただいていらっしゃた方もある。
また「あの方を御誘いをしても来なかったわ。くればいいのに。」ぐじぐじ思うこともない。ちゃんとご縁があって来るわけですから、だからみなさんそういうところで、いろんなことで考えすぎてしまう。
 「残念だわね、今日はこういう会があるのに、来てくれなかったわ。ああだわ、こうだわ。」そういうこと全部、全て天にお任せ。
 
 聖句の中にこういう言葉があります。
 「み心が天になさること、地にもなさせたまえ。」
 素晴しい、大自然のみ心がある。この大自然のみ心というのは、あらゆるものを幸せにしょうというみ心です。この大自然のみ心全てに向かっていけば、自然にみなさんの心、みなさんの思いというものが、自然に変わっていけば、回りの空気を変えることができる。だからみなさんが、一人一人大切なお宝である。
 神武天皇は、国民に対して、こういいます。「全ての国民は、元々である。」
この元々というのは、素晴しい宝である。全ての国民はみな素晴しい宝であるということをいっています。まさに神武天皇というのは、初代天皇でありますけども、初代天皇が全ての国の国民は、元々である、み宝である、とうことをいっています。だから、みなさんはまぎれもなく、宝なんです。みなさん一人一人がいい宝であることを、自覚して、毎日を生きてください。これが、大切なことであります。毎日感謝して、自分が宝であることを感謝して、自分はクズだとか、自分は才能がないのとは、思ってはいけないのです。みなさんは限りない才能を持っている。限りない輝きを持っている。その限りない輝きと限りない光を持って、これから人生を生きてください。

 みんさん一人一人が日の子(彦)、日の女(姫)であり、まさに天照様の生命をもっている輝きであることを、しっかり自覚して、自分の生命は、神の生命である、仏の生命であるってことがわかってくると、自然に地面に近くなってくる。地面に近くなってくるということは、頭を下げることができるようになってくる。常に謙虚になってくることができる。なぜならば、すべての恵み、まさに先ほどいいましたけれども、愛というものの本来は、見返りを求めない愛、だから見返りを求めない親の子どもであるんだから、みなさんがたが、見返りを求めない心になっていけば、本当の神に近づくわけです。 見返りを求める心また、金銭、お金を求める心、よくこの3年4年いろんな宗教が現われて来ましたけど、本当にそうゆう欲深いものは、全然神の世界とは、関係ない世界。株式会社です。だから、みなさん一人一人が本当の宗教、本当の神というもの、本当の生命というものに対して、自分できるところで、無理をせずに、感謝して、喜んで、拝みあってください。それが全て天につながっています。無理をしないこと、これが最後の答えです。
 
 本当に今日は、こいうい紋別の場で、紋別の方々、そしてみんさんとお会いできたこと、心から感謝申しあげます。みなさんが本当に素晴しい人生をこれから生きてくだされば、今日というみなさまの人生の1ページ、今日の10月1日のこのわたしとみなさんと出会うのが、もしかしたら、一期一会でこれが最初で最後かもしれませが、しかしみなさんの人生の中でたとえば10年、20年経って、そいうえば紋別のああいうとこで、10月1日に名前忘れたけど、お話し聞いたなあ。そうか「ありがとう」なんだなあ。そういう記憶でいいんです。私の名前を覚えることはありません。大徳寺照輝という名前も、今日のこの講演の話を覚えるのではなくて、本当に今出た言葉、みなさんが本当に聞いた心、それをいつの日か思い出してくださればいいのです。

  私は、頭ではなく、魂で、きっとみんさんが今日、受けおってくださったんだと思います。だから今日、お仕事の疲れで目をつぶっていらっしゃった方も魂で聞いていましたから、安心してください。ああそろそろ終わりだな、とおもって、ぱっと目を開いた方がおりましたけども、ご安心してください。私はいつも頭に話しをしておりません。生命に向かってお話しをしていますから。中には、講演中いびきかいている方がおりますけども、終わりですよ、といったら、「ああ終わるのか」という。ちゃんと魂が聞いているわけですね。だからみなさんもそういう魂を持っておりますから、何も心配することはありません。10年、20年、30年後また40年後また明日かもしれません。いつかこういう言葉を、そういえば、人生の1ページの、10月1日の、まあ、10月1日は忘れてもいいですね。なんか、人生の何か、なんかこういう話しを聞いたな、いつだったかな、でも、なんかこの話しを大事にしょうな。それでいいんです。まさに、この話し、お話し、まさに、この教え、その心をみなさんが実行し、生きていけば、そこに別にだれが話しをしたとか、どっかで聞いたとか、そんなことは、小さな小さなこと、みなさんがその言葉を大切に思って、毎日毎日を生きて下さったら、わたくしは、心からこの会に、みなさんと出会ったことが、本当に喜びになっていきます。
 どうぞそういう日々をこれから生きていただきたいと思います。
 
 本当に今日は素敵な会を催していただきましてありがとうございました。

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 「川の流れのように」 歌  大徳寺様 
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 「ふるさと」  会場合唱 
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THE END

            実行  大徳寺昭輝氏講演会 紋別実行委員会