エッセイ123-Essay123-2007.12.04
<全国学力テスト  2>

                       

                            全国学力テスト 2
                            
  前掲、全国学力テストに関する拙文をネット上のサークルに発表したところ、友人から以下のようなコメントがあった。それを受 け私は更に論を進めた故、以下に続編として掲載する
             

  『Kさんからのコメント』 
   子供がいないので、今時の教科書、たまにしか見ませんが、まるで絵本か漫画のような教科書、びっくりしてしまいます。 
 大学のスクーリングで先生が、「ゆとり教育なんて馬鹿大量生産制度だ」と言っていました。 結局、詰め込み教育を受けた世代が一番質が高い、という話も聞きました。 知人は、「日本はどんどんおかしくなっている。この国で子供を育てたくない」とタイに行ってしまいました。 
 次の世代を育てる教育は、国力にかかわるし、 少子化対策も、産めよ殖やせよ策よりも、 教育に力を入れて少数精鋭にする、という選択肢もあってもいいのではないかと思います。 学習意欲の低下はどうしたらいいのですかね。新しいことを学ぶことって、楽しいことだと思うのですが。 

  『Lさんからのコメント』
  なぜ「ゆとり教育」が生まれたか。その経緯を辿っていけば、けしてその基本理念は間違っていなかったと思うよ。 当時言われた、「新学力観」「生きる力」「自ら学び考える力」。すべて正しく重要なこと。でも立派な理念のもとで行われた政策はお粗末なものだった。結局は公教育の切捨て。教育に予算をかけることなく、学習内容だけを削減して休みを増やし、都会の私学との差は開くばかり。 
 教育改革も行政改革の一環に組み込まれていたのかな。格差の拡大に貢献したということで。話が本題からそれてしまいましたが、言いたかった事は、ゆとり教育は決して間違いではなかった、ただやり方を間違えたのでは?ということです。 
 これは日本の教育問題の根幹にかかわることで、国際的な学力テストの結果が悪かったことで、すぐに前言を翻し、もとの詰め込み教育に戻しても 問題は解決しないと思うのですがいかがでしょうか?

    『私の返信』
 Kさん、Lさん、教育に対するお考えをご披露いただきありがとうございます。今9時過ぎ、4時間にわたる授業が終わったところです。学期末テストが目前に迫っているので子供達はそれぞれ自分のペースで取り組んでおりました。 
 さて前回に続き私の思うところ語ります。 
 ある男子生徒、重度の「携中症状」を見せていました。昨年秋、試験間近になっても携帯をはなせない。魂はフラフラと外出します。私は少し自覚を促そうと考えました。  「M君、君は、数十年後ご両親が死ぬ、と言うことを知っているのか。その際君は立派に親を送らねばならないのだ。当然その時に君は家庭をもって戸主として家族を養っている筈だ。『知は力なり』という。今その力を付けるべき時なのに、何故この大切な時期を無駄にするのだ。いつまでも親に養って貰うわけにはいかないんだよ。」  
 彼は顔色がかわりました。それ以来少しずつ勉強もするようになり、つい先日の学力テストでは市内の高校になんとか間に合うだろう、という処までやってきました。
 またある女生徒、この子も典型的な「携帯中毒」。とても声のきれいな子です。
「Yさん、今年札幌に声優養成の学校ができたんだ。君なら将来声を生かす仕事をしていけると思うよ。その素敵な声で人をなぐさめ、世の為人の為になることができる。しかしそれには勉強していろいろな試験を受けて資格を取らなければならない。君を待っている人がいるのだから、今からしっかり力を付けておかなくちゃ。携帯は後でも出来ると思うがネ。」彼女、いつもより少し多く勉強して帰りました。 
   確か、当時の文部省が昭和40年代後半だったと思いますが、様々な障害を持つ子供を強制的に養護学校などに移しました。勿論その方が子供にとっても一層良い場合もあるでしょう。そういう子のためにはそうすべきです。しかし学習に差し障りなく、みんなと一緒に普通教室で勉強したいと強く望む子も、親と共に登校してくると先生方が腕を組んで壁を作り校内へ入れませんでした。 
 私はここから日本の子供達の精神が次第に崩れていったと考えています。身体的に大変な仲間に手を貸し助け合う事は、友情や愛情、自分の手足が自由に動くことのただならないこと、またハンディに負けず懸命に生きることの大切さなど、人間性に欠くことの出来ない様々なことを学ぶ絶好のチャンスなのです。そういった経験なしに音が聞こえ目が見え、無意識に呼吸ができることの素晴らしさ嬉しさをいつ知るのでしょうか。そういう経験の機会が無くなった子供達の中から、やがて障害者や何らかの個性の強い者を異質な者としていじめる子が現れてきました。そこから更に相手が死にたくなるほど苦しんでいても、尚おもしろがっていじめ抜く、しかも何の痛みも感じない、昨今世を騒がせている子供達が育ってきたのだと思います。 
 制度を作るのは人間です。その立場の人達がどのような視点から認識を作り実行形態を作るのか。何より制度を作る人が人間をどうとらえているか、すべてはそこにかかっていると思います。いささか話は飛躍しますが、スローガン的に言うなら、スラム街があるような国を作っていけない、スラム街に住まわざるを得ない人を作ってはならない。何故なら人間の尊厳を大切にしない国は自滅行為を選択したことになるからです。
 これからも様々な子供が私の前にやってくるでしょう。私は彼らに語りかけます。 
 「この世はブーメランだ。君達はすぐ『ぶっ殺すぞ』というが、さっさと取り消すことだ。言葉には物事を創造する力が宿っている。その言葉は殺人者としての自分を呼び出したことになるんだ。池に石を投げたら波紋が広がり岸に到達。やがてそれは間違いなく発信地に戻ってくる。我々はそう言った宇宙エネルギー、生命の原則の中で生きているのだ。だから自分を助けるには人を助けるしか方法がない。人をたたくことは実は自分をたたいているのだ。」こんな話を根気よく語りかけながら次の世代を育てて行こうと思っているのです。 私は、こういう根本原理から教育はじめ国の諸制度は作られ運用されるべきと考えています。
 「スクリーンの中で衣服を脱ぐ人より、教師の給料が少ないのは本当はおかしいことです。」何かの本でこんな一文を見たことがあります。そのとうりだと思います。 
 ニーチェではないが、今こそ価値の顛倒(てんとう)が必要です。 

   
 


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